「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」
(1975/ベルギー+フランス/Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles)「シャンタル・アケルマン映画祭」上映作品
@ヒューマントラストシネマ渋谷映画に革命を起こしたと言われる、ベルギーの女性監督シャンタル・アケルマン映画祭に行って来ました。
ヒューマントラストシネマ渋谷は常に個性的な特集上映をやっていますね。
にしても、このタイトル、ちゃんと言える人いる??
【 追記: 2022/12/31 】10年に一度英国映画協会(BFI)が発表する「史上最高の映画100」 2022年版で1位に選出された
ジャンヌはブリュッセルのアパートで、思春期の息子と2人きりで暮らしている。湯を沸かし、じゃがいもの皮をむき、買い物へ出かけ、“平凡な”生活を送る彼女だったが――未亡人ジャンヌの3日間を描く。
カメラはジャンヌの日常を追う。
1日目。ベッドメイクをする。使ったタオルをランドリーバスケットに入れる。芋をゆでる。日常のルーティーンをひたすら見せられる。すっかり家の間取りも覚えてしまった。いわばジャンヌの日常の営み、とりあえず興味深い。
2日目。同じ一日。息子を学校へ送り出し、息子のパジャマを畳み、靴を磨き、買い物に行き、簡単に昼食を済ませ、編み物をし家計簿をつける。
いやいや、全く同じ日々のくり返しにいささか退屈を覚えて来る。
私たちは何を見せられているのだ?
息子と二人の食事。ほぼ会話はない。
息子、高校生くらいだと思うけど老けてる&かわいくないw
しかし、この凡庸な日常に違う要素がある。
男(おやじ)が訪ねて来る。二人は寝室へ。ジャンヌはおやじから金を受け取る。
翌日、また違う男が訪ねて来る。男は「また木曜日に」と言い帰って行く。
ジャンヌはとても真面目な性格。買い物は朝早くに済ませる。商店の開店を待って買い物!
そして帰宅すると夕ごはんの仕込み。早すぎるダロ。
何事も早目に動かないと気が済まないのね。強迫観念か。
その性格が端的に表現されるのは、洗面所、寝室、居間と各部屋に入る時出る時、こまめに照明をオンオフする。そのショットが何度も繰り返される。
ところが、2日目後半か3日目か、照明を消さずに部屋を出た。
「奥さん、電気つけっぱなしですよ」と観客は心の中でつっこんだに違いない。
この辺りからさすがに彼女の内の変化を感じる。
買い物帰りに寄るカフェ。いつも座る席には先客が。
仕方なく隣りのテーブルに座りコーヒーを頼んだが、ジャンヌは飲まずに帰ってしまった。
ふつふつと沸き起こるジャンヌのフラストレーションを執拗とも思える丁寧な描写で描く。
何か起こりそうな予感・・・。
3日目のミートローフの仕込み。これでもかこれでもかミンチ肉をこねるジャンヌ。
ええええ~いつまでこねるのぉぉ これもその予兆であった。
ミートローフに宿る凶気!
あと、ジャンヌは度々近所の赤んぼを預かるんだけど、今回(3日目)はやたらと大泣きするんだよね。
ジャンヌは赤んぼを抱き上げてあやすんだが、泣き止まない。ここ、怖かったです。
こういうちょっとしたシーンで、凶気や恐怖を観客に感じさせるのはうまいな。
観ながら考える。
6年前に夫を亡くし、主婦のジャンヌは仕事をしていない。この家はどうやって生活しているのか?(って結局売春してたんだけど) 外で働くという選択肢はなかったのか。
この生活がいつか破綻を迎えるのはわかっていたよね。
物語半ばを過ぎても、話が全く展開しない・・・。
あれ?この上映時間って・・・3時間超え、200分の長尺なのだった。
ラストの、時間が止まったかのような長回しは、蔡明亮をホーフツとさせます。
とにかくジャンヌはひたすら家事をしている。
デルフィーヌ・セイリグは日常生活でけっこー家事をやっている人なのかなと思いました。
昨年の怪奇幻想映画祭「赤い唇」(1971)では、この世の者ではない妖艶な吸血鬼を演じていたのに、今回は全く別の顔です。女優としては今作はやりがいがあったろうと思われ。
こういう映画の表現があるのかと。その意味で、やはりシャンタル・アケルマンは“革命”だった。
関連記事:
デルフィーヌ・セイリグ出演作
「
赤い唇」(1971)
「
銀河」(1967)